東京赤坂生まれ
私は、東京赤坂で3人姉妹の末っ子として生まれ、一家が逗子に引っ越したのは小学校1年のときでした。父・貞保は若いとき柔道で鍛えた体のがっしりした人で、建設会社の勤め人。人のよい学究肌の人でした。
その父は、私の中学入学を前に、勤め先の東京から帰る途中、交通事故で亡くなりました。
母は内職、姉はアルバイト
父亡きあと、母は洋裁の内職など、長女もアルバイトをして家計を支えたそうです。でも私は苦労を感じたという記憶がありません。あとで聞いたことですが、児童手当などの公的援助をうけ、やりくりしていたそうで、母はずっとあとになっても、その頃お世話になった民生委員の方に、本当によくしていただいたと感謝していました。
その頃の私は、動物が大好きで、のら犬やのら猫、すずめや鳩なども拾ってきては家で飼っていました。幼心に、命あるものをいつくしみ、いとおしく思ったのは、母譲りなのかもしれません。
信心深い母
母・はな子は、洗礼はうけていませんが、いつも手元に聖書をおき、私たち姉妹は教会の日曜学校にも通っていました。私は母の希望もあり、中学・高校はミッション系の学校に通い、部活はソフトボール部に。
母は大正生まれの古いタイプの人でしたが、進歩的な考えもあわせもっていました。子どもにあまり干渉しませんでしたが、「自分で選んだことにグチを言ってはいけない」という母の言葉は、私の生き方にも大きな影響を与えてくれたと思います。
その母も1997年にガンで亡くなりました。
社会の矛盾の中で
高校卒業後、デザイン専門学校に進学し、その後の進路に悶々とし、とりあえず義兄の紹介で入社したガソリンスタンドが社会人としてのスタートでした。
個人会社の社長はワンマン的で、まず給料が私より低い人がいることにびっくり。その人は仕事がよくできるのに、社長とうまがあわなかったようです。選挙で「この人を書け」と押しつけられたりも。「そんなことおかしい」という私に「あなたは会社にあわない」という社長。
結局退社することになりましたが、ちょうどこの頃、大学にいっていた次姉から岩室さんを紹介され、すすめられて民主青年同盟に。その後、日本共産党の一員に加わりました。
「人とふれあう仕事を」と医療の職場に
民青の活動や、障害者施設で働く高校時代の友人との交流で「人とふれあう仕事がしたい」と思うようになり、ちょうど職員募集していた神奈川みなみ医療生協の衣笠診療所に。
「病気の原因は社会的なもの。だから社会保障の充実を」という民医連の綱領を読んで、新鮮な感動をうけました。
最初は事務でしたが、「もっと人とふれあう仕事をという希望がかなえられたのが、受診援助などをするケースワーカーの仕事でした。
ケースワーカーとして
医療と福祉の仕事では、教えられることばかりの毎日でした。
忘れられないOさんのこと
ケースワーカーとして歩きはじめたころのOさん夫婦のことはいまも忘れられません。無年金で生活保護をうけておられ、いつもご一緒でしたが、ある時から奥さんがひとりで薬をとりに来るようになり、気になって訪問してびっくり。古い家で、畳床が落ちて傾いたところにOさんは「く」の字になって寝ておられ、床ずれは目を覆うばかりでした。役所は状況を知りながら「本人から申請がない」と放置していたのです。行政のあり方に、本当に怒りを覚えました。
「保護廃止通知」をもってきたBさん
生活保護をうけているBさんが、ある時、生活条件が改善されたとも思えないのに「保護廃止通知」をもってこられました。こんなときケースワーカーとしてかけてあげる言葉は、本当にむずかしいのです。「どうして廃止になったの?」と問いただしたあと「しまった!」とその時も思いました。 Bさんは「子どもが修学旅行にいくので普通の保険証を持たせたい」と、自ら生活保護を打ち切ったのでした。
こうしてたくさん教えていただいた人の心の痛みを、私の活動の原点にいつまでも生かしつづけたいと思います。