日本共産党逗子市議団

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いわむろ年治


年治の誕生

写真は、左から父(金治)、従姉、兄(治朗)、姉(まや)、母(年子)に抱かれている私。

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青い海とおばあちゃん

 私は、1959(昭和34)年2月12日、横浜市金沢区町屋町に、父・金治と母・年子、兄・治朗、姉・まや、三人兄弟の末っ子として生まれ、貧しくとも明るい家庭に育ちました。

 祖父母は、逗子海岸で海の家「末廣 すえひろ」を営業していたことから、毎年夏休みは祖父母と過ごしました。私の心には遠くに望む富士と江ノ島の姿と穏やかな青い海が焼きつき、人一倍逗子の海を愛するようになりました。

母と兄の死を見つめて、手探りで歩む日々、新たな出会いに向けて

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 私は、母から戦争の体験(トラック諸島)や大学に進学しても女性の地位の低さと矛盾、人間の生き方(哲学)を教わり、家のトイレには「家訓」のような「泣くことはやめよ」という文章が貼られていました。祖母は子守りで学校に通えず、読み書きができないどん底貧乏のような苦労、兄からも建築、スポーツ、漫画など様々な影響を受けました。その母(49歳)と兄(25歳)を十代で、その後祖母も続いて亡くしたことは、非常にショックでした。しかし、人は悲しみや苦労を背負って生きているものであることを知り、今の私の生き方やどんな人にも偏見なく接し、行動するルーツはここにあります。

高校時代はサッカー部のキャプテン

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 私は中学・高校の6年間をサッカーに打ち込み、高校時代はセンターハーフ、キャプテンとしてチームをまとめ、リーダーとして頑張りました。毎日の練習に欠かさなかったことは、ねばり強さやスポーツマンシップ、指導力を身につけた6年間でした。

手話サークルで心のふれあい・感動・成長

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 私は、高校3年から手話サークル(ひまわり会)の活動を通じて、障がい者のみなさんの心にふれ、社会の矛盾に目覚めるとともに障がい者の社会参加を真剣に考えるようになりました。将来に不安を抱え、迷っていた私にとって、家族以外のサークルの仲間に暖かく支えられた体験は、私に人の優しさと思いやりを学ばせてくれました。また、幼い子が両親に手話で話しかけている姿をみて感動し、誰でも不自由を感じさせない社会が必要という思いを強くしました。(写真 ひまわり会の10周年記念大会と夏キャンプの磐梯山登山)

高校卒業し就職、建設現場で働き始める。そして民青に加入

 私は、工業高校を卒業後、祖母と同居するために逗子へ転居。 建設会社の現場(写真)では、2トンダンプの運転、土方、大工・左官・瓦職人の手元、鉄筋工、図面設計、不動産営業、監督助手など行ないました。会社は残業手当なし、有給なし、無権利状態で、建設業の重層的下請け構造の末端で、働く者の大変さを実感しました。自らの体験を通じて、働くなかで社会の矛盾をますます強く感じ、19歳で日本民主青年同盟(民青)に加盟し、20歳で日本共産党に入党しました。

青年運動・平和運動のなかで日本共産党へ

 日本民主青年同盟(民青)の副委員長として、多くの青年とともに科学的社会主義(哲学・経済学・運動)を学び、青年の要求運動に取り組み、空母ミッドウエーをはじめとして核艦船の母港化反対闘争や池子米軍住宅建設反対運動、そして原水爆禁止運動へ積極的に参加しました。(写真は逗子市民祭りの民青原爆展、原水禁世界大会に参加、民青パンフより、班会に参加する様子)

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池子弾薬庫全面返還デモに79年から参加、米軍住宅反対!池子の森を守る闘いへ 

 池子弾薬庫の全面返還運動では、1973年11月から毎月第2日曜日に実施ている「池子米軍基地(旧弾薬庫)全面返還を要求する月例デモ」にも1979年から参加、1987年からは永橋為敬さんから事務局長を引き継ぎ、デモは45年目を迎え、今日まで続けています。また、逗子原水協の事務局も兼任し、平和行進や世界大会代表派遣に取り組んでいます。

 逗子市は「青い海とみどり豊かな平和都市」宣言を掲げ、池子米軍基地を撤去させ全面返還をめざすことは市是となっています。そして逗子市民の悲願でもあり、その実現にむけて引き続き全力をあげています。

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  第118回(9年)      第300回(25周年)

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第400回(33年)      第500回(41年)

零細業者の営業とくらしを守る民商事務局員に

 建設会社を退職し、三浦市の民主商工会(民商)の事務局員で、営業や税金の相談を受け、約4年間働きました。自民党政治は大企業への優遇税制をすすめ、法人税も払わない実態を知り、一方で自家労賃も認められない零細な業者のみなさんの税金は重く、その苦労を肌で感じてきました。とりわけ不当な税務調査をゆるさず、消費税導入反対運動など、くらしと営業を守るために取り組み、会員のみなさんと日々一緒に活動しました。

議員活動の原点、みどり・平和・市民自治の逗子市政の実現をめざして

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 初めての市議会議員への挑戦は、1986年(写真・逗子駅前ロータリー)、27歳の若さで告示1週間前に決意、残念ながら惜敗しました。初当選の90年以降、8期連続当選してきました。逗子市政にとって、80年代~90年代は池子米軍住宅建設計画問題で、容認派と緑派に市民を二分する議論が展開され、市長リコールが2回、市議会リコールも行われました。再び起きた横浜市域への追加建設計画でも10年近く市政が揺さぶられました。まさに逗子市政と私の人生にとって激動の時代でした。

 逗子市は自治の精神と自然・住環境を守れの声は、結果として市民全体のものとなっています。富野市政で「良好な都市環境をつくる条例」、長島市政で「まちづくり条例」制定とつながってきました。私の公約である「みどり・平和・市民自治」の市政とは、自然と住環境の保全・池子の森返還(基地撤去)・情報公開と市民参加による市民が主人公の市政をめざすことです。私の議員活動における政策(公約)と行動の原点になっています。

石巻に震災ボランティアとして…、災害に強い逗子のまちづくりを

 東日本大震災と原発事故は被害の甚大さだけでなく、私たちの暮らしと街づくりに影響を与えるものでした。ボンティアを通じて、被災地の復興を願いながら、逗子市でも災害に強いまちづくりを進めたいと思っています。(写真 津波で建物に押し上げられたバス、石巻で窪田町議と被災住宅の片づけと清掃活動にあたる姿)

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